剣岳チンネ左稜線

                                   河合良三

                                

剣・チンネ・左稜線。何か魔法の呪文のように人を魅惑する響き。日本では有数のスケールを誇るルートで、岩を攀じるものには憧れの岩場だ。人は加齢するに従って憧れを失っていくものだが、いまだに憧れる対象をもてることを感謝しつつ、二度目の挑戦に立った。今回同行してくれたのはN。暖かい気持ちの持ち主で不思議と気が合う。

真砂沢のテント場を出たのは朝4時半過ぎ。Nの唯一の欠点である腹具合の悪さが出発を少々遅らせたが、九月も半でまだ暗い闇が谷間を覆っている。ヘッドランプを頼りに剣沢の雪渓を六本爪のアイゼンで辿る。この時期、万年雪も所々クレパスを開き、雪渓の下を流れる清流の音が闇に響く。長次郎谷との出会いに出るころには、夜が開け清々しい青空が深い谷間から覗いていた。

 八ツ峰と源次郎尾根に挟まれた長次郎谷は、万年雪の巨大な谷間だ。左に軽く曲がって行くと、八ツ峰の岩峰がスカイラインを鋭角に区切って連なっている。平日とあって他には誰もいない。僕らの歩く音、話す声だけが谷間に響くようだ。六本爪のアイゼンとピッケルを頼りに、次第に傾斜を増していく長次郎谷を、一歩一歩、踏みしめ踏みしめ登っていく。六本爪のアイゼンはどこか頼りないが、去年使った四本爪よりははるかに安定している。振り返ると、「出会い」が小さな池のように丸く見える。一時間ほど登ると雪渓が割れて、大きなクレパスが口を開いていた。源次郎側に巻き道を見つけて辿る。帰りが暗くなるのを予想し、巻き道の入口と出口に目印を作る。

再び雪渓に入ると、正面に位置する熊の岩の存在が目に付きだした。「本当にくまの顔をしてますね」Nがそう言うが、感受性の鈍った当方にはどうも熊の顔には見えない。少なくとも器量の良い熊ではない。右手に八ツ峰の?峰のピナクルを確認する。澄んだ青空の下、五・六のコル、六峰のA、B、C、Dの各フェースが手に取るようにわかる。去年ガスの中で登った六峰Dフェースに、再びチャレンジしたい気持ちを抑えるのに苦労する。

 熊の岩で右俣に入る。長次郎谷の先端を本峰からの稜線が覆い始める。四囲を白みがかった灰色の巨大な岩壁が囲み、白い雪渓が青空に映える。岩と雪と空。シンプルな素材が奏でる巨大で変化に富んだ自然のハーモニー。チンネに向かうアプローチのはずなのに、この景色だけで強い充実感を覚える。

自転車通勤で鍛えたNが先行する。雪渓をそのまま辿るのか右に分かれた小さな涸れ沢を取るのか判断に迷う。Nが雪渓をそのまま辿るがどうも怪しい。涸れ沢を行くことにする。踏み跡らしきものはあるものの、傾斜がきつい上に崩れやすく歩きづらい。大小の落石が続く。最上部に小さく残った雪渓を、ピッケルを頼りに雪壁を登る要領で攀じる。かなりの緊張とアルバイトを強いられる。予定より1時間ほど遅れてやっと長次郎の乗越に出た。コルのすぐ下にビヴァークに適した更地があった。時間が遅くなればここでビヴァークすることをNと確認する。長次郎の頭から三人パーティが降りてきた。今回出会った唯一のパーティだ。昨日、室堂からの登りで声を掛けてくれた、初老の男性がいた。剣沢から本峰を経て北方稜線をたどるはずだった。男性に何時に出発したか訊いてみた。僕らと同じ時刻だった。何のことはない。剣沢から本峰を経由しても同じタイムだったのだ。

少々腐るが素晴らしい景観を見られたのだからと、気を取り直し彼らの後を追って、池ノ谷ガリーを下る。ここも一般道とは言い難いが、先ほどの涸れ沢の登りに比べれば舗装道だ。チンネの頭が右手に見える。小窓の王が圧倒的に目の前に聳えている。三の窓から陽光が差し込む。「だから窓というのか」Nの言葉に納得する。三の窓につくと先ほどのパーティが休憩していた。先頭を歩いていた人はガイドらしい。チンネを登ると言うと、いろいろとアドヴァイスをしてくれた。地元の人で4日前にも客を連れて左稜線を登ったと言う。T5の後がおっかねえよ、と日焼けした顔の、濁りのない眼で教えてくれた。

パーティに別れを告げて三の窓雪渓を行く。ここも思った以上に傾斜が急で歩きづらい。ガイドに教えてもらったとおり、岩壁の下部を辿るがクレパスが開いていた。思案していると雪渓の下部で水が滴たっている。ちょうど補給したいと思っていたので、休憩がてらNの広口ボトルを下に置く。数分たって溜まった水は泥交じりの黒い水だった。「おいしいですよ」Nが一口飲んで、真面目な顔で言った。

自分のペットボトルに水を補給している間に、Nが先に雪渓の上部をトラヴァースして行った。頼れるパートナーだ。水を補給しNの後を追った。取り付きらしいバンドの下部に立った。真砂沢を出てから6時間。やっと岩に登れることになった。この時点でビヴァークを覚悟したが、登攀は平均タイムの5時間を目指そうと二人で誓った。

 11時12分。総計15ピッチになる登攀を開始した。朝は雲ひとつなかったのに、なにやらガスめいたものがいつの間にか、周囲を覆い始めている。小窓の王も見えなくなった。トポ図の2ピッチ目の凹角からのようだったが、この際そんなことはどうでもいい。天気が崩れる前に登りきりたかった。3級のピッチを快調に攀じる。堡塁岩や不動岩でトレーニングを積んだ身体は無意識のままに動いてくれる。この手足が勝手に動き出す瞬間がたまらない快感だ。テラスに出てNに声をかける。人気ルートを独占している喜びを感じる。

3ピッチ目はNがリードする。本格的にやりだしてからまだ一年も経たないのに立派なものだ。だがトポ図では3級のはずなのに、意外と難しいらしく手間取っている。A0(カラビナを掴む)でなんとか右上してくれた。セカンドで登っていくと確かに難しい。これは?級ではないなと思う。Nが支点を取ったところをさらに左に回りこむと、安定したテラスがあった。どうやら左に直上すればよかったらしい。よく登ったねと言うと、剣の?級はこんなに難しいのかと思った、と少し青ざめた顔で答えた。

 4ピッチ目をリードする。ガスが広がり始めた。どうも俺は天気の神様に睨まれているようだ。確かに清廉潔白とは言いがたい男だが、何もこんなときまで困らせなくともと、天を呪い壁を這いながらテラスに立つ。

「解除」「了解」「どうぞ」「いきます」練習を重ねた成果で、息もあってきた。Nが登りだすと急にガスが晴れだす。はるか下方に流れるように続く、三の窓雪渓が見え出す。横を見れば巨大さを増した三の窓の頭と小窓の王が競い合うようにそそり立っている。浮き立つような悦びが込み上げてくる。大自然と一体化できる岩登りという行為の素晴らしさを改めて感じる。登ってきたNに思わず笑みを漏らす。

5ピッチ目はNのリード。バンドを右上しルンゼを攀じる。これも3級でピナクル(尖塔)が確保地点だ。二人とも難なくこなしピナクルで休憩。これで3分の1が終わった。時間は12時40分。4時間半のペースだ。3時半までに登りきればテントに帰れる。具体的な目標が定まった。6ピッチ目のフェースをリードする。これも3級で問題はなし。高度感が増し世界が広がる。至福の時間だ。7ピッチ目は草つきで2級。コンテ(同時進行)でこなす。三の窓から見えていた手前の稜線は、ここで左稜線と合流し巨大なリッジになって上方に伸びている。8ピッチ目も2級のはずだったが、意外に急な斜面でNにリードを託す。セカンドで登り始めると、またガスが広がりだす。左稜線のリッジ。本当なら高度感が増すところなのに。天よ。俺をそんなにいじめるな。

横を見た。巨大な岩塔がガスの中に浮かんで見えていた。クレオパトラ・ニードル。去年八ツ峰の縦走路から見たときとは、まったく違うスケールで、数十メートルにわたって垂直に聳え立っている。ガスの隙間から見える、得も言えぬ鋭角の造形美。思わず息を呑んで見とれた。「日本離れ」したスケールだった。案内書によくつかわれる陳腐な表現だが、確かにこんな光景はなかなか見られるものではなかった。

9ピッチ目10ピッチ目は、三の窓から鋸歯状に見えた、ピナクルが林立する部分だった。巨大なピナクルを目の前にすると思わず横に逃げたくなるが、思い切って直上すればなんとかホールドやスタンスが見つかる。負けへんで。急に大阪弁が飛び出す。広がったガスのおかげで高度感は失われたものの、かなり難しいピッチを二人で交互に切り抜けた。10ピッチ目を終えると広めのテラスに出た。T5だった。ガイドがおっかねえと言っていた核心部だった。確かにここから左稜線は急に角度を増し、灰色に黒ずんだ空に突き上げていた。写真でよく見る「鼻」と呼ばれるハングも真近に見えた、2度目の休憩を取った。3分の2が終わり、4時間半のペースから若干遅れていた。

雨です。Nが厳しい口調で言った。なんでやねん、と思うが、熱いものが心の奥に沸いてきた。闘争本能だ。岩と向き合うことは同時に自分との戦いだ。自分に負ければ必ず岩にも負ける。ともすれば弱気になる自分を抑え、岩との戦いに集中すること。岩登りは精神を集中することの大切さを教えてくれる。

軽くレーションを摂り、核心部に向かう。下から「鼻」を見上げる。どうやら「鼻」を乗り越すのではなく、その横の小ハングを乗り越すらしい。岩に取り付いた。慎重にランニングを取って行く。ハングに近づく。確かにややこしい体勢をとらされるが、ホールドはしっかりしている。手探りでホールドを探す。具合のいいホールドに触れる。これで大丈夫だと瞬間に思う。身体が反応する。力の入れ具合、バランスのとり具合が自動的にわかる。精神を集中し力を込める。ハングを乗り越す。勝負は一瞬だった。岩に勝った喜び、自分に克った喜びが心を浸す。

しかしランニングを慎重に取りすぎたせいで、手持ちのカラビナが少なくなっていた。安定した場所に出るにはまだ数メートル上らねばならない。ランナウト(支点なしで登ること)でこの垂直のリッジを登るのはつらかった。すぐ上にピトンが見えた。目の前のピトンとその上のピトンでNを確保することにした。幸いスタンスは安定している。壁に張り付くような体勢でNを確保する。細かな雨が顔に当たる。ガスの合間から見える下方は、すっぽりと切れ航空写真を見るようだ。

Nが苦もなく上がってきた。そのままリードするように頼む。Nが入れ替わって登っていく間、天気の神様に祈る。もう少しがまんしてください。ザイルが伸びていく。Nが頑張ってくれているのがよく分かる。ザイルの動きはパートナーの心の動きだ。確保しながらT5のテラスを見つめる。「解除」Nの声がかかった。不自然な体勢からやっと解放された。必死の祈りが通じたのか、Nのいるテラスに上がると、ガスが少し晴れ青空がのぞいている。山の天気と女心はいまだにわからない。

Nの頑張りで12ピッチまで終わったはずだ。残り3ピッチ。時間は3時を過ぎていた。微妙な時間だった。とにかく全力を尽くそう。13、14ピッチ目。短いリッジを交代で素早くこなす。時間との争いになっていた。15ピッチ目は40mの2級のはず。リードを始めると、その通り簡単なリッジが続く。三の窓の頭が近づく。池ノ谷ガリーに下るコルが見えた。終了点、チンネの頭だ。半マストでNを確保。Nのうれしそうな顔が近づいてきた。

午後4時。何とか5時間を切って終了した。強い達成感を感じた。生きている悦び、生きている素晴らしさを感じた。チンネの頭は広い安定したテラスだった。コルに下る下降路さえ見えた。Nと相談する。無理をすればテントまで戻れないことはなかった。もう一度、装備と食料を確認する。雨さえ降らなければ大丈夫のはずだった。ビヴァークをするなら早めに余裕を持って決めることが大切だ。携帯をとりだし真砂沢ロッジに連絡を取る。何とかつながる。小屋の主人にビヴァークする旨を伝える。天候はまだ持つとのことだった。方針が定まったことで、Nと改めて握手を交わす。「いいルートだったね」

本当にそう思った。アプローチの雪渓から岩登りまで、総合的な技術と体力が要求されるルートだった。装備を整理し記念の写真を撮って下降路を下る。ビヴァークすることに決めたことで、時間と心にゆとりができた。三の窓でするか長次郎のコルでするか迷ったが、少しでも近い方がいいだろうと思い、長次郎のコルでビヴァークすることにした。池ノ谷のガリーをいったん下り、午前中通った道を再び登り返して乗越に出る。長次郎谷を少し下って往路に確認していた更地に着く。充分なスペースがありビヴァークするには快適すぎるほどだった。

午後5時。ツェルトの設営を始める。何しろ道具は豊富だ。ハーケンを打ち込み、ツェルトにザイルを通し、プルージックの自在を作る。Nが持っていたレスキューシートをテントマット代わりに使い、ザックを下に敷く。何もないところから工夫して創っていく作業は楽しいものだ。Nも初めての体験で何かしら浮き浮きしている。充分すぎるほど立派な寓居ができあがった。あとは水だ。往路で苦労した雪渓に下る。雪渓の角に滴りを見つける。Nの広口ボトルで水を溜める。三の窓の水よりは澄んでいる。「お腹の弱いぼくが飲んでも大丈夫だったから」Nの言葉には説得力があった。

薄暗くなり始めた谷を登り返し、着られるものはすべて着込みツェルトに潜り込む。ザイルを始め登攀用具一切が掛け布団だ。デジカメで今回の山行のスライドショーを楽しむ。「楽しいビヴァークやな」

しかし案の定、夜更けから気温が下がり始め、体の芯から冷え込む長い夜が始まった。昔、前穂で初めてツェルトで寝た時、「ぼくに妻子がいなければOさんと抱き合っただろう」と書いたことがあった。今は遠慮無くNと身体を擦りあわせて寒さをしのいだ。ザイルに絡まれた大の男二人がツエルトで寒さに震える図を描くのはよそう。身体は充分に伸ばせたし、疲れをとるには充分だった。

朝4時半。長い夜が明けた。朝食のカロリーメイトと飴を分け合う。蛹から羽化する蛾のように、ぼくらはツェルトから顔を出した。晴天だった。長次郎谷は下部まで見通せた。後立山連峰がシルエットになって浮かんでいる。寒さに痛んだ体を伸ばした。疲れはあったが、夜を乗り切った満足感もあった。ぼくらは笑顔でツェルトの撤収を始めた。

下降路としては3通りが考えられた。1 往路と同じ長次郎谷を下るルート。2 北方稜線をたどり本峰経由で真砂沢に戻るルート。3 八ッ峰を縦走し、五・六のコルから長次郎谷に降りるルート。1は一番早いが涸れ沢の下降が嫌だった。2は一番安全だったが、あまりに大回りになる。結局3の八ッ峰ルートをとることにした。

撤収後、左上するガレ場から八ッ峰に取り付いた。うまい具合に八ッ峰の頭と?峰の間のコルに出た。見覚えのある地点だ。八峰を登る。一気に三の窓側が開けた。昨日登ったチンネの左稜線がくっきりとスカイラインを描いている。あそこを登ってきたのか。クレオパトラ・ニードルも今朝は何も身につけていない。三の窓の頭が、小窓の王が、八ッ峰の頭が圧倒的な量感とともに間近に聳える。長次郎側に目をやれば、本峰の北壁が正面に鎮座していた。青い空の下、長次郎谷の雪渓が鮮やかな白さで目に飛び込んできた。素晴らしい岩と雪の饗宴だった。

「ビヴァークの恩恵やね」後から登ってきたNと二人だけの宴を心ゆくまで楽しんだ。ゆったりとした時が流れ、全身が自然の中にとけ込んでいく気がした。寝不足でお互いの顔は腫れていたが、力を尽くした心地よい充足感があった。